Velox1’s blog

人生を変える経験を。

無人スマートコンビニ「便利蜂(Bianlifeng)」の挑戦〜デジタルアルゴリズムを活用した常識破壊


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無人スマートコンビニ「便利蜂(Bianlifeng)」は3年前の創業から全国20都市•1500店以上出店の快進撃を続けている(今年5月下旬には北京で500超の店舗で黒字化達成)


コンビニ業界は一般的に各店舗の黒字化までに7年かかるといわれるなか、この実績は他の追随を許さない異常な速さである。この要因を分析すると、どうもデジタル化アルゴリズムの活用がキーのようだ。


創業者荘辰超氏は、自身が立ち上げた航空券比較サイト「去哪児(Qunar)」を2016年末に売却。そして、次の10年の新たなビジネスチャンスを模索し始め、モデリングやシミュレーションによりコンビニ業界に商機を見いだしたようである。


日本では人口約2200人に1店舗、台湾では20002400人、韓国では1500人に1店舗と展開されているが、中国本土では、北京で人口2200万人に対し約700店しかない(台湾では人口2400万人に対し1万店以上)。北京と台湾の消費水準はほぼ同レベルであることを考慮すると、中国本土におけるコンビニの成長余地は非常に大きいと考えられる。


だがコンビニ事業の展開は、1店舗あたりの利益の上限が低く、決して容易なビジネスではない。北京の老舗ローソン1店舗あたりの平均日販は12000元(約18万円)前後、またセブンーイレブンでは2万元(約30万円)前後で落ち着いている。店舗における一定の顧客数や商品構造という制約を受け、この平均日販が大きく変動しないのである。反面、賃料や人件費といったコストは年々高騰する一方だ。


店舗あたりの利益が低いビジネスで売上拡大を実現するには、地域での店舗数拡大するしかない。だが中国国内でのコンビニ数拡大は容易ではなく、セブンーイレブンやファミリーマートなど、中国市場への進出から15年以上経過した企業でも店舗数はそれぞれ2500店余りにとどまっている。


その原因は主に三点ある。

①高い出店コスト

日本ではセブンーイレブンなどにはいずれも標準的な店舗形式(敷地面積、形状、商品棚のレイアウトなど)がある。だが中国には基準にマッチした商業用店舗はそう多くなく、標準店舗形式に沿って出店しない場合、各店舗の図面やレイアウトにはそれ相応の調整が必要になり、これが大規模出店から遠のく原因となっている。セブンーイレブンはこうした基準をクリアすることを厳格に求めた結果、過去15年間で北京にわずか200店舗ほどしか出店できていない。


②高すぎる管理コスト

コンビニエンスストアの直営店舗は80店を超えると店舗巡回、商品配送などの管理コストが倍増し、店舗売上高における限界効用が逓減する(店舗出店の効果が薄まる)らしい。このため、世界で7万店以上あるセブンーイレブンの店舗のうち、直営店の割合は2%に過ぎない(他はフランチャイズ)

 

③地域性が強い消費者嗜好、標準化が難しいこと

ある二つの店舗が1キロ離れれば売れ行きは大きく変わってくる。中国の北部と南部さらには各省の飲食習慣の差などは言うまでもない。このため、店舗ごとの差別化や的を絞った運営が必要となり、スタッフへの要求や売上高の不確定性も高まる。


便利蜂と荘辰超氏はこれらの問題を、デジタルアルゴリズムで解決しようと挑戦している。

歴史の「事実」と「記憶」〜広島原爆投下の悲惨さを訴えても戦争がなかった日が1日もないのはなぜ?

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過去の歴史を読み解くにあたり、客観的な出来事としての「事実」と、それを解釈し伝えていく主観的なストーリーとしての「記憶」は明確に区別されるべきである。


例えば、「第二次世界大戦」を語る際、アメリカ人は1941年パールハーバーから奇襲攻撃から勇敢に戦ったことを語るのに対し、日本人は広島原爆と天皇玉音放送という終わりから敗戦として語る人が多いだろう。それぞれの国でそのようなストーリーとして語られているからだ。


歴史にはそれぞれの国でそれぞれのストーリーがある。また、そのストーリーは時代、地政学的な要素で変わる可変的な危ういものである。しかし、歴史を学ぶというのは、事実を知ることが目的ではない。その原因と結果をしっかりと把握して、悪い結果をもたらした出来事が二度と起きないよう、自らアクションを起こすことである。


その理解にストーリーを掴むのはとても有益な手法である。色んな国のストーリーを学ぶことで多面的なものの見方を学び、視野を拡げられる


「事実」と「ストーリー」双方補い、理解が血肉化されていくのである。


1937年第二次上海事変だけでも、どっちが仕掛けたかだけでも日中間で見解は異なるし、それぞれ都合よく解釈されてしまう。ただ、そんなことはどうでもよくて、なぜ起きたのか、そこで何が起きたのか、それがどう繋がり、未来にどう役立てていくか、そのアクションが重要だと思う。


広島の原爆慰霊碑に「Never again」と刻まれているが、残念ながら戦争がなかった日は1日もない。世界共通のストーリーではないから。


一個人は無力にも思えるが、ストーリーとはアンオフィシャルなもので、政府を通さずに民間だけで変えていけるものである。小さくても自らアクションを起こすことが大切だし、「選挙の1票投票」で政府を通して働きかけることも決して難しいことではない。


本を読んで記憶を学ぶだけでなく、小さいことでも何でもよいので世界の平和のために働きかけをしていきたいと思う。

「メイソー」NY上場〜日本はいつまでノスタルジーに浸ってるの?

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「メイソー」(名創産業)がNYで上場したという記事を見た。


中国のいわゆる100均ショップである。ロゴがユニクロの赤ロゴに似ており、ソーがダイソーのソーと同じ100均ということもあり、ユニクロ、ダイソー、はたまたは無印商品もミックスしたパクリだという記事を日本ではよく見かける。


今回の上場も「パクリビジネスで上場とは何事か」という袋叩きのコメントを多く見た。


正直、大変悲しいことである。


中国在住者として言わせてもらうが、日本の百均よりもまだ温かみがあるし、置いているものも同じではない。品質も結構いい。少なくとも、日本企業のパクリだなんだというのは、かつて日本の記事を見るまで気づかなかったほどである。


100均ショップというビジネスモデルがパクリだなんだ云々というのは、とんでもない勘違いだろう。


地下鉄だの航空機だの、日本の殆どのものは主に欧米諸国から輸入したものであるし、日本のビジネスも殆どが他国のパクリである。


「昔俺が若い頃はこうだった、、、」とつまみながら酒とノスタルジーに浸るこのオヤジ国民性が、失われた30年の元凶であるのは言うまでもない。


日本の皆さんいい加減に目覚めようよ、

最近NYに上場した元気のいいユニコーン企業が日本から誕生しましたか?


マーケットで求められているのが何か?素早くお客を捕まえた方が勝ちなんです。


この記事を読んでとにかく悲しくなった。それだけである。

緊張性頭痛〜うつに打ち勝つ第一歩

最近、少し有名俳優の自殺が続き、改めて精神衛生の重要性が意識されてきています。

私も個人的に大変なストレスを感じると、頭がガンガンし、とにかく話せなくなる、また反応が遅くなるなどネガティブな影響が出てくるのにここ数年悩まされています。

今日は特にその症状がひどいため、ネットで調べたところ、「緊張性頭痛」という症状のようです。お風呂に入るなどいろいろ改善法があるようですが、今日は「ツボ」刺激により頭痛を抑える方法を紹介したいと思います。

百会(ひゃくえ)

頭頂部にあるツボ。耳の先端と鼻の延長線が交わるところ。指の腹で体の中心に向かって押していきます。
子供の頃「下痢ツボ」と言われて遊びで押していた人もいるのではないでしょうか。

風池(ふうち)

耳の後ろの骨と後頭部のくぼみの中間。

 

太陽(たいよう)

目と眉のそれぞれの端の中間点から指2本分外側にあるくぼみ。

 

肩井(けんせい)

首後ろの骨の突起と肩の先端を結んだ中間地点。
分かりにくければ、反対の手を少し広げて肩に乗せた時に中指が当たるところです。


これでしばらく様子を見たいと思いますが、毎日一歩でと先に前進したと成長が感じられるのが一番の改善法であるのは間違いありません。同時並行で進めていきます。

碩学と博学は同じ?〜日中で比較してみました!

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あまり頻繁に使いませんが、知識人のことを「碩学」とか「博学」といいますね。ただ、これらは全く同じ意味なのか、あるいは微妙にトーンが違うのか、意外とよくわからないことも多いと思います。


中国では、修士課程を終了した人を「碩士」、博士課程を終了した人を「博士」と呼びます。学問習得の度合いでは、「碩士」<「博士」です。


日本でどうなのか気になったので、調べてみました(以下引用)


「碩学」「博学(はくがく)は、「碩学」「学問を広く深く修めたこと・人物」を意味しているのに対して、「博学」「幅広く色々な学問にわたって豊かな知識を持っていること・人物」を意味しています。


現代では「碩学」「博学」の意味の違いはほとんどありませんが、強いて言えば「碩学」「学問・知識の深さ(学問を深く修めた権威もある知識人)の意味合いも強くあるのに対して、「博学」の方は「学問・知識の幅の広さ(色々な物事を知っている物知りの度合い)に重点があるという違いがあります。


また今では、「碩学」よりも「博学」の方が実際に使用される頻度が多くなっています。


以上、これはあくまで一回答に過ぎませんが、日本でも博士の方が、知識の幅が広いようです。端折り過ぎかもしれませんが、「碩学」<「博学」で良いみたいです。